2021-06-10 八本脚の蝶を読んでの書き付け

境界があるからこそ,境界でへだてられているからこそその存在は認識され,知覚される

神はもしかすると,「面白いものがみたく」て我々を創造したのかもしれない.一読者として,世界がどうなるか,わくわくしながらページをめくっている.ときにはそれは残酷だ

2020/06/10 BLって

つまりデミセクシュアルのことなんじゃないの?と,溝口彰子氏の「BL進化論」で提唱されている「究極のカップル神話」についての記述をみて思いました.

 

究極のカップル神話の定義はこう.

BL作品には、前述したノンケ宣言と同じくらい、「一緒に行こう。生きてゆける限り」といった「永遠の愛」を誓うセリフが多い。主人公たちは心身ともに完璧におたがいに夢中で、他の人間は性別を問わず性愛の対象として目に入らない。その意味においては、たしかにゲイではない。それどころか、ノンケですらない。彼らは、「ふたりだけの究極のカップル神話」のなかの住人であり、セクシュアリティは神話の内部で自己完結している。 

 

ホモセクシュアルとしてのBLだけでなく,デミセクシュアルとしてのBLももっと着目されてほしい.

違いがわからない

シン・エヴァンゲリヲンを観てきました.

 

「初期ロット」レイと「式波タイプ」アスカ.

劇場版に登場する惣流アスカには式波アスカというオリジナルがいて,さらに惣流アスカと同じようなクローンは無限に存在する.レイも同じ(こちらはオリジナルは碇ユイだけど.綾波ってのはゲンドウの旧姓だよね)

だからアスカは「自分」という存在を信じられない.

レイはその時求められているような形で存在するだけで,自我というものは極めて希薄だ.

式波アスカと自分はどう違うの?別の惣流クローンとはどう違うの?

 

私たちはいったいどうなんだろう.

アスカとレイの場合はわかりやすい.見た目も同じ,声も同じだから.性格は微妙に違うけど.

ニンゲンはそれぞれ見た目も違うし性格も微妙に違う.だけど私はほかのニンゲンと自分が存在としてどう違うのかわからない.同じじゃないかと思う.AとBほどの違いはなくて,AとA’くらいの違いしかないように思える.

 

アスカは「アスカはアスカなんだから,それでいいじゃん」と言ってくれたケンスケに救われたけど,私はそんなふうに言ってくれる人がいても救われない.

絶対女の子がいいな

はじめて「女子向け」のコミュニティに所属したのは大学3年生の時にやっていたアルバイトの時だった.そこはオーナーが男だったけど,少なくとも私がいたときはスタッフのほぼ10割女性.メインで入っていたのは6人くらいかな.やさしい世界だった.肌がきれい,顔がいい,カワウソみたい(?これは褒められているのかけなされているのかよくわからないが)って,みんなが肯定的に扱ってくれた.そんなことってなかった.それまで自分は女性が苦手だと思っていた.きらいなのではなくて,どう関わっていいのかわからなかった.自分の趣味には,一般的にいわゆる「男性向け」と思われるものが多かったから,小学校に入ってからこのかた,男の子の友達ばかりしかいなかったし,男中心のコミュニティにしかいなかった.はじめて出会った女のコミュニティはすごく居心地がよかった.妙なマウントや張り合いもないし,ブサイクだと陰口を言われることもないし,逆に性の対象に向ける恋愛感情を向けられることもないし,嫌な下ネタもないし,ちょっとした言葉の端々にあらわれるミソジニーですらない素朴な「女はこう」という思い込みにモヤモヤすることもないし.それからというもの女性に対する苦手意識はすっかりなくなって自分の友達は女性ばかりになって,できるだけ女性コミュニティに所属するようになった(男性に多いような趣味を持っている女性もたくさんいるから,探せばなんだってある).自分が女子校に通えていたらな〜なんてことを思うけど,過ぎたことを言っていても仕方がないし,いま世界がちょっと素敵な場所になっただけでもういいかぁとも思う.

数学をやっていると

ギリシャ哲学を思い出す

 

あるものはある,ないものはない とか

想起説とか.

 

結局,数直線上にある一つの点が存在するか,否か,は稠密に点が並んでいて途中で消えることがないという直感に依っているし,無限に大きい/小さい数があるというのも出発点は直感だとすると,その”直感”はどこから発生したのか?

拝啓高野悦子様

『20歳の原点』を読んだ.悦子さんの文章は赤裸々で,まっすぐで,そしてもちろん彼女はノートが誰かに読まれるなんて想像もしてなかったのだろうにもかかわらずひきこまれるような文章.自分は彼女と感性を共有できなかったけれど.

 

「孤独であり,未熟である」こと,そしてそれでも考え続けること,こういったことを彼女は大切にしていたのであろうし,自分自身と必死に向き合おうとした結果多くの人がたどるように闇に呑み込まれてしまった.全体としてはそうなのだと思う.

 

だけど,煙草や酒をやるなんてことで自由を感じてしまうのは,学生運動にのめり込むのは,男の中のあるひとり(ふたり?)に幻想と理想をおしつけ,まるで神像をあがめるようにのめり込むのは(そうして,当たり前に彼女が考えるような人物ではないので)失望するのは自分自身と向き合うこと,考え続けることそして孤独であることからの逃げではないのかしら.

 

もちろん,彼女はそうだということに自覚的なのだ.おそろしいほどわかっている.自覚的であるからこそ,弱い自分と理想の自分との齟齬に耐えきれなくなってしまったのだろう.

 

ああ,自分は彼女が男に対する恋慕あるいは性欲などに真面目に取り組んで救いを見出そうとしていたことに失望しているのだ.せめて彼女がほんとうに大切にすべきだったのは,同じ孤独を分かち合っていて,彼女が素朴に信頼を向けていたのは牧野なんじゃなかったのかと,文字にはあらわれているのにどうしてそれに気づかないのだとすら思っている(よりマシなだけで,彼女に”救いを求め”るとしたらそれはそれで同じ結末を迎えたのだと思うけれど).

 

ただのしょうもない男への執着なんかのせいで死んでしまったなんて,もったいない.恋が,性欲が,いったいなんぼのもんなんだ.くやしいよ.

結婚願望ってなに?

最近,アナイス・ニンの幼少期(11歳〜)の日記『LINOTTE』を読んでいる.

彼女については二階堂奥歯が好んで読んでいた,文章に才能のあるひとという認識しかなかったのだが,内向的な暗い世界観を持っていて,本を読むのが好きで自分と日記との対話を好む,一般的に見ると少し風変わりな(しかも12歳の!)彼女ですらも素朴に将来”素敵な男性と”結婚したいと思っているようで驚く.


自分はアナイスくらいのとしの時にもそんなことは思っていなかったし,それから今に至るまで一度もそんなことを思ったことがなかった.
不労所得が得たいという意味で金持ちの妻になりたいと思ったことはあったが.ただ悲惨な労働をせずに毎日勉強をしたり創造的な行為をしたりして過ごしたかったのだ.
ただそれは結婚そのものを求めているというよりは,単に多額の収入がたまたま転がってきさえすればなんでもいいという程度の願望だ.


一度たりとも,男と結婚したいとも母になりたいとも思ったことがない.なんというか,「絶対にそうしないぞ」と決めているというわけではなく,ただ素朴に自分の辞書にないというか・・・そういった価値観をインストールされていないのだ.自分がこのようであることについてなんの疑問もないが,結婚したい(あるいは素敵な彼氏が欲しい)と考えている女性(もちろん,男性という単語と入れ替えてもよい)の方が一般的で自分はそうではないのではないかとちょっぴり不安になる.