2021-07-16 「おしゃれ」って

そもそも「ダサいやつ」を作り上げてそのダサいやつをバカにすることでしか成立しないんじゃないのかなと思いはじめてから、「おしゃれ」とされるものにたいして懐疑的

「おしゃれ」とされているものって本質的にうさんくさい。

小山田圭吾みたいなやつがいじめ問題って、さもありなんとしか思えない(もちろん、いじめにかんしては私も許せませんが)

2021-07-13 心が乏しい

松浦理英子「最愛の子ども」。

 

特に前半はぞわぞわするようなホラーで、同級生の女たちの擬似家族の関係を通じて実際の家族のグロテスクさ(どんなにグロテスクな言動、行動も、普段は"家族"というキラキラコーティングされた言葉で隠されている)が目の前に突き付けられる。正直、読むのが辛かった。

 

後半は家族の比較的明るい面が描かれている。和解の可能性。

 

こういったメインの部分もかなり刺さる作品ではあったのだけれども、自分の心に深く刺さったまま離れないのは、物語中で存在感をある程度発揮しながらも、完全に輪の外に置かれている「苑子」だ。

彼女に関する記述はこう。

いわゆる〈天然〉で会話をするといつもずれた反応が返って来て、しかもずれ方に面白味がなくちょっといらつかされるため、勝手な話だけれどじきに失望して特別視しなくなった。 

 

『いいことばっかりは続かないよ。栄枯盛衰だね』って、相変わらず自分は全く関係ないってふうに」
> 「苑子最強」日夏は笑った。「大勢の男たちを従えた鞠村の思い通りにならないんだもんね」
> 「心が乏しければ乏しいほど強いのかもね」美織も笑いながら同意した。

苑子、どうしたんだろ。ついに人間性に目覚めたのかな.聞いて来る」
> ・・・
> 誰かを嫌うほど感情豊かじゃないでしょ、あの子は。もう忘れてるよ」 

 

「しょうがないよ。苑子はああいう子だから」
> 「愛情かけても無駄無駄。絶対通じないよ」
> 「何て言うか、手ごたえのない子だよね
> 「恋愛にしろ友情にしろ親密な関係なんか持たないし、持てないし、望んでもいないだろうね」
> 「まだ見切りつけないの? 弄んですらくれない子なのに」
> 希和子は困った顔で口を開いた。
> 「わかってる。そういうこと全部わかってるけど、悪い子じゃないじゃない。人を攻撃しないし、来る者は拒まず去る者は追わずだし、 嘘つきでもないし、かっこつけてもないし、あのまんまの子でしょ」
> 「そりゃ他人に興味ない子だから」草森恵文が指摘した。
> 自分自身にも興味なさそうなところは偉大にさえ見えるよね」
> 「そうなの。どことなく大物感があるの」わが意を得たりとばかりに領いた希和子は、小さな声でつけ足す。 「アホなんじゃないかとげんなりする時もあるけど」 

 

 

酷い言われようだ。

「心が乏しい」だって。

何がきになるって、この苑子、自分にとても似ているのだ。特に、それこそ中学~高校のころの自分に。

 

自分の身に起こっていることでもどこか他人ごとで、会話をするといつもずれた反応をかえしちゃって、だけど他人にも自分にも興味がないから"悪い子じゃない"なんて言われている(でも、つまんないからそれ以上に好意的な感情は抱かれない!)

こういう子って、たしかに存在するんだけど、我々"こういう子"本人以外はこうやって描こうとすら思わない忘れられた存在だとおもってた。こういう子を登場させられるんだ、させてくれるんだ、次作ではもっとほりさげてみてほしい…ってのはわがままかな。自分にはまだ、うまくわたしたちのことを分析できないから。

 

 

 

 

 

 

2021-07-04 セルジュ・ゲンズブールの顔

セルジュ・ゲンズブールの顔が苦手だ.

ルッキズムを謳うアンチルッキストとして日々を過ごしている私としては本当に遺憾なのだけど,ものすごく苦手だ.

なんだか理科の教科書に出てくるアボガドロみたいなギョロっとした目がダメなのか,主張の激しい鼻がダメなのか髪型がダメなのか・・・それとも一つ一つは問題ないのに,全体として見るとダメなのか,よくわからないけど見ているとゾワゾワしてくる.

 

松田青子さんの「ロマンティックあげない」にはよく映画館の話が出てくる.このエッセイ集を毎日ちょこちょこ読んでいて今日も例に漏れず読んだのだけど,そのときふと,そういえば自分,一回だけ見に行った映画で途中退席したことがあったなと思い出した.それは,セルジュゲンズブール出演の「スローガン」だった.

けっこう楽しみにしていたはずが始まったとたんセルジュの顔にウワッとなってしまって,それでも我慢して見ていたけど,話が進むにつれてそのもはや恐怖に近いくらい苦手なセルジュが親子ほども歳が離れた(ように見える)ジェーン・バーキンとセクシュアルな関係を演じているのが耐えられなくて,結局途中で席を立ってしまった.

 

こんなことすっかり忘れていたけど,思い出してみるとなんとなくこのことがうしろめたくなってきた.反省しつつ,ルッキズム内面化人のことをもう少しあたたかい目で見ようと思った.

 

 

2021年に「東京ラブストーリー」を観る

2021年に『東京ラブストーリー』を観てみたら,ストーリーがわからなかった.結論を先取りしてしまうけど,この物語を楽しむためには時代が経ちすぎてしまったということだ.

 

ストーリーがわからない,より正しくいうと,「このドラマで描かれる”恋愛”がわからない」.別に,作品を楽しむために必ずしも「わから」ないといけないわけではない.共感なんて全然できなくても,それどころか何いってるかサッパリわからなくてもおもしろい作品なんてその辺にいくらでも転がっている.けれどこの作品は,少なくとも当時はOLたちに「共感」を持ってむかえられ,月曜の夜にはOLが街から消えると言われ,彼らの織りなす人間模様に涙したというのだから,そういう楽しみ方を期待してもバチは当たらないだろう.

というか,そのような楽しみ方が一般的だと想定していたのだ.

 

どうしてこのドラマで描かれる恋愛が「わからない」のか.個人的には「感情が唐突すぎる」からだと感じている,

出会って一週間も経っていなさそうだし,詳しい動機はイマイチよくわからないままカンチをちょっとおかしいくらいに好きになるリカ.さとみのことをずっと好きだったと言いつつ,そして大好きな親友であるカンチから奪いつつ,それでもなぜかさとみと膝突き合わせて話すことはせずに(仮にも幼馴染なのに!)別の女にうつつを抜かす三上.そして,現代の女性(主語がでかいが,私のことだ)がなにより理解できないのは,カンチからさとみに対しても結局「こういう”女の子”が好き」という好きなタイプの話から一切外に出ているように見えないことだろう.カンチはさとみが好きなんじゃなくて,さとみのような,つまり人前でさくらんぼのタネを出すのを恥ずかしがるような古風で3歩下がった女,しかも肉じゃが作って家まで持ってきてくれる女,そういう女なら誰でもかまわないんじゃないか?という疑念.結局のところ,「だれかがだれかを好きな理由」がきわめて曖昧なのだ.

 

現代人は(これも主語がでかいが,まあ私のことだ),この唐突さを理解できない.唖然として眺めていることしかできない.感情移入もなにもあったもんじゃない.

この感覚が,それでもやっぱり現代人がある程度共通して持っているものなんじゃないか?と私は考えているが,その証拠の一つは,坂元裕二氏の最近の作品にある.

たとえば,『カルテット』では,登場人物がだれかを「好きカナー」となるまでにそれなりの時間を費やしていた.そもそも人間関係自体がちょっとずつ深まっていく作品だった(しばらく前に一度見たきりなのでうろ覚えですが・・・).『花束みたいな恋をした』では,恋に落ちるまでは早かったけれどそれなりに納得いく理由が提示されていた.まあ,最近でもとらのあな婚活とかがそこそこ流行っているように,「共通の趣味がある,しかもめちゃめちゃ合う」っていうなら,なるほど仲良くなるに十分な理由になるだろう.

坂元氏以外の作品でも,近年大ヒットした結婚ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」も,初めは契約結婚の家政婦としてみくりが「就職」するところから話が始まる.依頼人である平匡との時間が増えるにつれて,ちょっとずつ二人の仲は縮まっていき,好きになる,という筋書きだ.

「一目惚れ」的パターンは,男と女がいれば自動的に好きになるものだ,というような杜撰なパターンはもう古いというわけ.

 

古い,新しいというのは,そういうお約束が通用しなくなった,という話だ.別に,バブル時代のリアル人間たちもフィクション同様猫も杓子も「一目惚れ的恋愛」をやっていたというわけでもないだろう.そういう意味では彼ら彼女らが「一目惚れ的恋愛」そのものに共感していたかはよくわからない.

けれど,そこに恋愛が発生しているという合意さえ取れれば,恋愛の始まり方はなんでもいいというような前提は少なくともあったと思う.

それは単純に,恋愛する人が今より多かったからだ.恋愛というテーマ自体が,誰でも直面しうる普遍的なものだったからだ.

 

出生動向基本調査(1992)によると,未婚者のうち交際相手がいないと答えた男性は47%,女性は39%だった.(それでも未婚者のうち約半数は,少なくとも調査時点に交際している相手はいないことにはなる)

それに比べて(2015)では,未婚者のうち交際相手がいないと答えた男性は70%,女性は59%だ.しかも,交際相手がいない人のうち今後も交際を望んでいないという人は男性では30%,女性では26%になっている.

未婚者自体の母数が年々割合として増えていることを考えても非常に大きな変化だ.

 

恋愛というテーマが普遍的なものでなくなっていくにつれて,恋愛それ自体ではなく別の部分で共感を集めようという動きが出てくることにも納得がいく.つまり,「恋愛に至るまでの関係性の深まり」であり,「あるひとを好きになるに至る,説得力を持った理由」だ.恋愛をしたことがなくても,極端な話友人が一人もいなくても,「こういうことがあれば仲良くなりたいと思うだろうな」というのはだいたい理解できるし,共通だろう.これらはボーイズラブによく見られるパターンだ.ボーイズラブでは,「もともとゲイというわけではないけど,xxのことは好きだ」という,「この人だからこそ」というパターンが特徴的だ(溝口彰子「BL進化論」を参照),そして,すぐに関係を持つパターンはあれど,好きだと自覚するまでに時間をかけ丁寧に描写している作品も多い.ボーイズラブの魅力は「カップルの関係がより対等なものであること」であり,また自分の女性性に違和感を持っている人が,女性性というノイズに煩わされずに恋愛作品を楽しめるという部分にももちろんあるのだが,「なぜ,この人なのか?」「そもそも,好きってなんだろう」と掘り下げていく作品も多く,それもボーイズラブ作品の魅力の一つだ.恋愛をしない人が増えた現在では,ボーイズラブだけではなく異性同士の恋愛を描いた作品であっても,恋愛それ自体というよりも「そもそも恋愛ってなんなんだ?」「なぜ,ある人はあるひとを好きになるんだ?」というテーマを掘り下げたほうが共感や感情移入が生まれやすくなっているのではないだろうか.

 

結論・・・というのでもないが,というわけで「東京ラブストーリー」は,2021年に観るには少しテーマとお約束が古い.恋愛に関する”お約束”や恋愛自体以外のテーマとしては,「仕事を選ぶか,恋を選ぶか」というものがあると思うが(現に,このドラマでは仕事と恋を両取りすることはできないことになっている.リカがロス行きを選んだ時点で,リカの恋は終わるのだ),これだって現代であれば,いやいや両方選ぶことはできるよ,女で仕事をしている/続ける=バリキャリ志向ってことでもないよ,という話になってくる(そしてそもそも,仕事と趣味を楽しみたい,恋は必要ない,という層も増えているのだ).これに関してもちょっと古いかなという感じで,不朽の名作,には残念ながらなっていない作品だった.坂元裕二の原点を見られたことはよかったけど.

 

 

視聴はこちら→(アマゾンプライムビデオ)

https://www.amazon.co.jp/%E8%A1%8C%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A7/dp/B083PSFJ11/ref=sr_1_2?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%A9%E3%83%96%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC&qid=1624973374&s=instant-video&sr=1-2

2021-06-28 「まつだせいこ」と誤読させたい松田青子

松田青子さんのエッセイが面白すぎて,家で一人で声に出して笑ってる.

 

彼女との最初の出会いは(厳密には彼女の文章との出会い,なのだけど)『持続可能な魂の利用』だった.正直,not for meだった.一冊前に『推し,燃ゆ』を読んでアイドルがモチーフの作品繋がりで読んだからということもあって,あまりにストレートでダイレクトすぎるものいいが気になったし,ところどころ「わかる〜」はあるんだけど全体としてはスケールが謎.てか,最後のあれ,何?ハーモニー?

 

というわけで第一印象はあまりよくなかったのだけど,信頼しているツイッタラーたちが(これ,死語かな?)『女が死ぬ』に言及しているのを見て,再度トライしてみた.

・・・めちゃくちゃよかった.言っていることはどストレートだし,生活に根ざしたものなのだけれど,それが何故かシュールな異界と混ざって提示される不思議な感覚.鋭い舌鋒.身近な違和感に妥協しない姿勢.怒りをユーモアに.胸がスッキリした.これはエンターテインメントで,エンパワメントだ.幾つかの言葉はお守りになった.

小説はほとんど全て読んだ.『持続可能な魂の利用』以外は全て短編で,私にとってはむしろ短編がよかった.というか,松田氏もこれまで短編メインで書いてきた作家なのだから現時点で短編の方がしっくりくるのはそれはそうだろう.

 

というわけで小説を全て読み終わってしまい,エッセイを読んでいる.エッセイが面白い人と小説が面白い人は一致するときもあるけどぜんぜんしないときもあるし,正直小説が面白かったぶんがっかりしたくなかったからちょっと迷っていたのだけれど,ものすごく面白かった.やっぱり,日常の切り取り方がうまい人だと思う.読んでいる間,彼女の目で世界を見ることができるのがとても嬉しい.

 

 

 

2021-06-19 自分の内側に潜る

ウロボロスの蛇が自分を飲み込み飲み込み、ついに消えてしまうところを想像する。
最終的には、口から裏返り、くるくると身体を巻き返す形になるはずだ。
その時には、内側は外側になる。
それまでの蛇の中味はなくなるが、世界が蛇の中味になる。

自分の中に潜ってゆく、どこまでも潜ってゆくと、くるんとひっくり返って、内側が外側を向く。
そうだ、私の身体は無に向かって収縮し、溢れ出したものは世界に浸透する。
しかしそれは難しいことだ。自分の内側に入っていくための扉を私はなかなか見つけることができない。
 (二階堂奥歯『八本脚の蝶』2002年7月12日(金)より)

 

調査地のキリスト教会で何がおぞましいかと言うと、各少数民族が教会の大きさを競っていること。平均月収1万円以下の貧困地域なのに信じられないほど巨大なLED装飾付きの禍々しい教会がいくつも建っていて、高さや床面積や収容人数の競争をしている。一方でインフラは滅茶苦茶で断水や停電しまくる。

@marukwamy
 

 

 

自分の中で,精神活動は現実の生活をいつも超えてしまう.
私は,(あくまで私個人の中で)インフラより教会を優先したいのだ.

精神活動を優先すること.

自分の中に潜っていくこと.

それは歪な存在の仕方だけど,それを徹底していたら,いつかくるんとひっくり返って,内側が外側に「なる」ことがあるだろうか.

 

 

※ 

二つ目の引用に関しては,発言の意図を曲げてしまっていることは自覚している.

もとのツイートでは,権力を持っている人間(修道士たち)が,現地の人間の生存を脅かしてまで自分たちの権威を高めようとすることが否定されている.

もちろん,自分もその通りだと思っている.

あくまで,公的にではなく個人単位でなら,教会(思想)をインフラ(生活)より優先してもよいだろうか?ということ.

 

2021-06-13 「少女」と「少年」の永遠

恩田陸氏の「小説以外」からの引用.

この「少女のチカラ」は、少女たちが永遠に少女たちであるところに特徴があると思います。先生の書く少女たちも、常に永遠であり、その点において完璧な閉じた存在であるような気がします。 

これは赤川次郎に向けたファンレターというテイで書かれた文庫解説だ.引用のあとには,「一部の男性作家にとって憧憬の対象であり,インスピレーションの源なんでしょうね」というような言葉が続くのだけど,個人的にこの引用から得た印象はちょっと違っている.

 

「少女」と「永遠」が結び付けられやすいのはなぜだろうか?

 

「少年」は必ずいつか「少年」ではなくなる.必ず.

なぜなら,少年は社会に出て,責任ある「大人」にならなければならないからだ.

では,「少女」はどうだろうか.「少女」は「少女」のままでいられることがあるのではないだろうか.そうでないとしても,少なからず「少年」よりは失われる可能性が低いのではなかろうか.

もちろん,仕事をもち,権力をほしいままにし,「社会」を動かすことだけを「社会に出る」というのは間違いだし,そうでなくとも責任ある「大人」に少なからずならなければならないのだけど,社会に出て働くこと,家にいて子供を持つこと,家にいて子供を持たないこと(実家で暮らし,姉妹の子育てを手伝うパターンや,財産をもとに一人で暮らすことができる場合もある.たとえば「風と共に去りぬ」のピティおばのように.)...,成長後に実は「社会に出てよのため人のため家庭のために働く」以外のたくさんの選択肢が用意されている(ように見える)「少女」のほうがより純粋で無邪気な子供を残したままでいられる可能性が高いと考えられていてもおかしくはないのかもしれない.

 

女性作家は「そんなことないよ笑」という感覚のほうが強いからそうは描かないのかもしれないけど,「少女」でも「女性」でもあったことのない男性作家が,その可能性のようなものを信じたがってしまうのもわかる気がするのだ.とくに,「少年」でいることが許されるべくもなかった「男性」たちにとっては.

彼らにとっての少女,それにはただの「道具」,あるいは「都合のいい妄想の産物」というよりもっと切実な動機があるように思えてならない.