2021-06-13 「少女」と「少年」の永遠

恩田陸氏の「小説以外」からの引用.

この「少女のチカラ」は、少女たちが永遠に少女たちであるところに特徴があると思います。先生の書く少女たちも、常に永遠であり、その点において完璧な閉じた存在であるような気がします。 

これは赤川次郎に向けたファンレターというテイで書かれた文庫解説だ.引用のあとには,「一部の男性作家にとって憧憬の対象であり,インスピレーションの源なんでしょうね」というような言葉が続くのだけど,個人的にこの引用から得た印象はちょっと違っている.

 

「少女」と「永遠」が結び付けられやすいのはなぜだろうか?

 

「少年」は必ずいつか「少年」ではなくなる.必ず.

なぜなら,少年は社会に出て,責任ある「大人」にならなければならないからだ.

では,「少女」はどうだろうか.「少女」は「少女」のままでいられることがあるのではないだろうか.そうでないとしても,少なからず「少年」よりは失われる可能性が低いのではなかろうか.

もちろん,仕事をもち,権力をほしいままにし,「社会」を動かすことだけを「社会に出る」というのは間違いだし,そうでなくとも責任ある「大人」に少なからずならなければならないのだけど,社会に出て働くこと,家にいて子供を持つこと,家にいて子供を持たないこと(実家で暮らし,姉妹の子育てを手伝うパターンや,財産をもとに一人で暮らすことができる場合もある.たとえば「風と共に去りぬ」のピティおばのように.)...,成長後に実は「社会に出てよのため人のため家庭のために働く」以外のたくさんの選択肢が用意されている(ように見える)「少女」のほうがより純粋で無邪気な子供を残したままでいられる可能性が高いと考えられていてもおかしくはないのかもしれない.

 

女性作家は「そんなことないよ笑」という感覚のほうが強いからそうは描かないのかもしれないけど,「少女」でも「女性」でもあったことのない男性作家が,その可能性のようなものを信じたがってしまうのもわかる気がするのだ.とくに,「少年」でいることが許されるべくもなかった「男性」たちにとっては.

彼らにとっての少女,それにはただの「道具」,あるいは「都合のいい妄想の産物」というよりもっと切実な動機があるように思えてならない.