性別を自分の重要なアイデンティティであるとみなしている人

いるよね.そういう人たちがいること自体にはなんとも思わない.その人にとっての大事なものなら尊重する.

 

自分にとっては,性別って鼻くそみたいなもので,例えば明日の朝突然男になっていたり女になっていたりしても心底どうでもいい.もちろん,オシッコするときに慣れないから困る〜とかあるのかもしれないが,そういった慣れない身体に疲れるという要素を別にするなら,だからなに?でしかないのだ.人が「女でなくなった」「男でなくなった」ことに対してぽっかりと穴の空いたようなかんじを持つとか「男としての自信を無くしてうんぬん」とかいうみたいだけど,まあその人たちにとっては重要なことなんだろうね.その人たちをばかにする気はないけれどね.不思議だなあと思う.

『イリアス』のテレマコスという人物

イリアステレマコスという人物に興味を持っている.彼は容姿が醜く生まれも兵士の中では下賤,臆病で情けない人物として描かれている.が,多くの兵士が胸の内で思っていることを大将らの前であけすけに発言するのは彼であるし,それはなかなかに正論であるようにも思える.

 

社会にはなじめないが,「(社会の)なにかがおかしい」という違和感を抱えるアウトサイダーであり,そして,ほんとうには皆が思っていたとしてもだれも言わないようなことを言ってしまう空気の読めなさを持ち合わせている.勝手にシンパシー.だけど社会は彼をバカにし,黙らせる.健闘にも関わらず,権威をかさに着たオデュッセウスめが「うるせー黙れ,貴様には誇りや勇気がないのか」などといって罰する.誇り?勇気?戦争をする勇気なんて鼻で笑えるね.少しくらいメンツを潰しても自国の人間たちに幸福を与えることこそが勇気であり,王のやるべきことではないのか.彼に加勢してもいいくらいである他の兵士たちがオデュッセウスに殴られる彼をみてただ笑っているのも,社会だなあって感じ.社会の人々,みんなそうだよね.コソコソ家とかで愚痴はいうけど,声をあげた人を見て見ぬ振りして権力に媚びるんだ.

 

このテレマコスについてはもう一つ,内面が優れない人物の容姿が優れていないと描かれていることにもいらだちがある.ルッキズムじゃん,ウケる.古代ギリシアでは「善=美」の思想があった,とドラマ『今からここは倫理です.』でも言っていた.多くのギリシア人は美=肉体の美だと思っていたのだろう.自分からすると,ただ偶然に手に入ってしかも自分で変更を加えることが困難な要素によって人を判断することに致命的なセンスのなさを感じるが,彼らは神を信じていたのだから,その場合自分の意思なんぞよりも神の意思が大事なのだ.「神からのたまもの」「神から愛されている」というサインとして受け取っていたのかもしれないね.

恋愛が出てくるコンテンツが苦手

なぜ,世の中には恋愛が中心的な人間関係として描かれている,あるいは恋愛をする主人公が出てきて彼女あるいは彼の恋愛模様や片想いがテーマである,あるいは要素の一つとして恋愛が発生するコンテンツがこれほど氾濫しているんだろうか?

 

人間関係の表現には友情もあれば戦友的な仲間愛もあり,家族の愛もあるのだし,そもそも恋愛を描くにせよ異性愛よりかは挑戦的な同性愛を選択することができるにも関わらずなぜそこで異性愛なのだろう?

 

これは完全に私怨.自分は異性愛者を差別しているし,なんならもっと広く性愛者を差別しているのだ,はっきりいって.性愛をやっている人間がきもちわるい.よくないね.しかも,恋愛が描かれているコンテンツばかりが世にあるというのは自分の偏見かもしれない.本当に恋愛が描かれているコンテンツは「多い」のだろうか?そうでないものは「少ない」のだろうか?そもそも,自分が気持ち悪いと感じている「恋愛」の厳密な定義はいったいなんなのだろうか?

 

 

 

何かを発言しようとした時に

そのものごとについての知識が不十分なことに気づいてなにも言えなくなる.

 

自分のノートやTwitterになら,メモ書き程度に方言をすることもあるが,いざこのように「ブログに何かを書こう」と思って画面に向かいあれこれ考えていると「まだこれについて何か言えるレベルでないな」ということに気づく.が,とりあえずなんでもよいから書き始めてみること,言語化しようと試みることから言語化するという技術が身につくのではないかとも思う.なのでここにはどんなにテキトーなことでも,思いついたことをなんでも書いていくことにする.